人生の終末について

ikami2005-02-13

 齢92の祖母はもう長くないらしかった。頭部のどこかが出血していて、その血液が顔の皮下に流れ出して顔を紫色にしていた。数日前までは顔が腫れ上がっていたそうだ。あまりの変わりように俺は少なからずショックを受けた。
 
 このような症状は、医者に言わせると非常に珍しいことのようだ。しかし、もし脳の中で出血していたら、既にもうこの世の人ではないだろう。生きているのが奇跡なのかもしれなかった。祖母の生命力の為せる業か。
 
 意識は非常にハッキリしていて、しっかりした声でしきりに家に帰りたいと言う。「もう帰れるのか」「これから帰るのか」「車はもう出してきたんか」「ここでずっと待ってる」「どこかに行くと帰れなくなるから」「家の草むしりをしないと」ボケが出ていて、同じ事を何度も言う。
 
 俺が孫のせっちゃんであることは認識できている。しかしもう俺の顔を見てもほとんど反応しない。ひ孫の動画をパソコンで見せてみる。ひ孫であることは理解しているようだが、ただじっと見るだけだ。喜ぶ顔が見たかったのだが、もうそれも望めないのか。
 
 そういう刺激よりも、家に帰りたい気持ちの方がはるかに勝っているようだ。家に帰っても、もう歩くことも出来なくなった体では長く生きることはできないから、今はこの養護施設にいるしかない。せめて、暖かくなるまでに体力が回復すれば。歩くことが出来るようになれば。叔父達は既に回復することを諦めているようだった。老衰というものは避けられないことなのか。
 
 しかし、祖母にとっては、人生の終末を家で迎えたいことだろう。見知らぬ人と見知らぬ施設で死を迎えるくらいなら、静かに家で死にたいだろうと思う。祖母は最後に家に帰ることが出来るだろうか。終末を迎える日が分かれば、家に帰してあげられるのだが、それは叶う事なのだろうか。
 
 もし俺が大学を出た時点で実家に帰ることを選択していれば、元気なうちにひ孫を抱かせることも出来たかもしれなかった。もう少しちゃんとした食生活をさせることも出来た。歩けなくなっても家で世話が出来た。俺が祖母を不幸にした張本人かもしれない。もし俺が人生の終末を迎える時に同じ境遇で迎えることになったら、それは因果応報というものだろう。
 
 「元気になって家に帰ろうな」「また来るからな」声をかけると祖母は頷く。家に帰らなくてごめんなさい。こんなになるまで放っておいてごめんなさい。こんな姿にしてしまってごめんなさい。俺の謝罪の言葉は声にならない。激しい後悔の念が俺を襲う。
 
 しかし、既に俺には新しい家庭があり、やり残していることもある。俺はこの土地に戻ることは出来ないのだ。
 
 育ててくれた恩人のこんな姿を目の前にしても気持ちを変えない俺の体の中には、本当に人間の血が流れているのだろうか。